カウンター

シンシウエニシ徒然草々


Diary-2007/08/23
Index 日記 画像 リンク



前へ もくじ 次へ


シャツ


私はシャツの裾をズボンの中に入れないと落ち着きを失う。

中学生の頃から周りでシャツを出すだらしないファッションが増え始めたように記憶している。
私は、意味がわからなかった。
カッターシャツをズボンに入れない姿の何処がかっこいいのか、まったく理解できないまま、ティーンエイジャーを過ごした。

同級生のほぼ全てが、シャツをズボンに入れなくなっても、私は常にシャツをズボンの下に入れつづけた。
シャツを出して着るのはチンピラのファッションだと思っていたからだ。
シャツを入れるのは、軟派ではない意思表示だった。

やがて、シャツを入れるのは年配の人ばかりになった。
その頃には、妹や母親からシャツを出すように圧力が掛けられるようになった。
ただでさえ華の無い容貌であるにも関わらず、ファッションまで親父臭いとあれば、その先には絶望しかないと諭された。
しかし、私はシャツを出すことをよしとしなかった。

私はもともとファッションにまったく頓着が無かった。
実家が衣料品店であり、親が店の仕入れのついでに服を買ってきてくれるもので満足していたし、当時私にとって最も重要な服は柔道着だった。
良い柔道着を着たいとは思っていたが、それ以外は制服とジャージで事足りた。

高専の専攻科に進学した時、ついに私は時代の流れに屈した。
正確には、時代の流れと言うより、女性の目に対する心境の変化であった。
打ち込むものを失った私には、もう流れの中にあって微動だにしない柱は無くなっていた。
妹の言うままに私はシャツを出すようになった。
そして、シャツの出し入れなど、私にとってどうでもよいものになった。

今、気が付くとシャツを入れていることがある。
時代に屈しはしたが、やはりシャツを入れるほうがしっくり来る。
気持ちが、足腰の重心が、据わる様に感じるのだ。
感じているだけで、実際に据わっているかは実証できるだけの根拠に乏しい。
だから、やっぱりどちらでも良かった。

人生において拘りは少ないほどよい。
本当に重要なものは驚くほど少ないからだ。
重要でないものは人に譲ることができる。
拘りが少なければ、重要なものを見失うことも減るだろう。

仏様の無常観である。
まん丸教も同じだ。
しかし、まん丸教は矛盾も大好きだから、無常観でありながら、いろいろ拘りがあってもいい。
世の中、そう単純には行かないものだから。


ではまた ごきげんよう。


前へ もくじ 次へ