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シンシウエニシ徒然草々


Diary-2007/08/11
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一貫


私の発言は一貫しない。
場所、時、状況によって言うことが変わる。
保身であったり、単純に間違っていたり、以前言ったことを忘れていたりする。

信者と議論していて、論破されそうになると、焦って適当なことを言って取り繕いだす。
相手は、にやりとほくそ笑んで、執拗に突っ込んでくる。
取り繕っている内に整合性が怪しくなる。
取り繕っている時点で、整合性がないことは自覚しているが、もう後には引けない。
こうなっては、自分もろとも騙しきるしかない。

敵はそうなるように誘導して、決定的な矛盾を指摘するために待ち構えているのだ。
必然的に、私が語るに落ちる。
そして、逆切れして関係ないことで相手を攻撃したり、以前のことを持ち出し人格攻撃にシフトして私の心の平衡を保ちつつ、相手を優位には立たせない。

論破されても、それは負けではない。
諦めたときが負けなのだ。
先に諦めた方が負けなのだ。

母から受け継いだ、私の得意技だ。
母が私や兄弟を怒る時の論理に整合性が有った事は稀だった。
そのことを指摘することは、火に油を注ぐだけだと気づくには、時間が掛かった。
私の要領の悪さが現れている。

何度も議論していると、以前は必敗していたインテリ相手でも論破できるようになってきた。
論破されている時は気づかなかったが、相手も論破されそうになると私の戦術を使ってきた。
インテリはインテリらしく最後まで論理的であるべきだ。
私と同じような大人気ないことをするとは、どういう了見か。
発言が一貫しない人間は信用されない。
彼はそのことを肝に銘じておくべきだ。

結局、インテリの彼も私も、そして母も発言は一貫しない。
サンプルは3つだが断言する。
人間の発言は一貫しない。

任意の事象について一般化した結論は、統計を取らない限りその真偽は証明できない。
人間60億に対して、必要なサンプルは0.0001%でも60万人にもなる。
だから、証明はできない。

人間の発言は一貫しないと言ったが、行動も一貫しない。
他人の不正は許せないが、自分の不正は許して欲しい。
だって人間だもの。

ついでに宗教も一貫していない。
一貫しているのは自然の摂理だけだ。

まん丸教は、教義が一貫している稀な宗教である。
教義の第一条に、矛盾しても良いと宣言しているので、矛盾していることを一貫している。

まん丸教万歳!


ではまた ごきげんよう。


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