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シンシウエニシ徒然草々


Diary-2007/07/06
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味覚


朝起きると、枕もとに約30個のプラムが置いてありました。
よく熟れていて、良い香りが漂っています。

最寄のスーパーで、1パック100円のおつとめ価格だったそうです。
ルームメイトが2パックを衝動買いをして、寝ている私の枕もとに陳列しました。
冷蔵庫ではなくて、私の枕もとに並べる行為に、彼との生きてきた経験と環境の違いを認識しました。

そのプラムは非常に美味で、私たちはその美味しさに満足を覚えました。
美味しい食べ物に私たちの会話は弾み、宇宙論から地学、量子論、やがてプラムがなぜ美味しいのかという、AIには到底不可能な会話を展開させました。

その中で、私たちがプラムを美味しく感じる理由は、プラムに求めるのではなく、美味しいと判断している私たちの味覚に求めるべきだと、私は主張することにしました。
動物は味覚で身体に必要な食べ物を判断しているとして、美味しいと感じるものは、基本的に身体に良いもので、プラムは糖質で栄養の塊だから、美味しいと感じているのではと。

しかし、だったら素晴らしい栄養食品である納豆が不味くて食べられないのはどういうことだと、即座に自分の論説に自分で突っ込みを入れました。
あの素晴らしくコストパフォーマンスに優れた栄養食品を私は食べることが出来ないのです。
このことは、生涯においてエンゲル係数を左右する問題なので、非常に無念でなりません。

他にも、味覚があるばかりに、極めて優れた食物であっても、食べることが難しいということは少なくありません。
セロリ、レバー、魚卵など、私には無理です。

味覚は、明らかに腐ったものや、大抵の毒性刺激物をブロックしますが、同時に薬や不味い栄養食品もブロックします。
そればかりか、食べ過ぎや偏食を引き起こします。
他の五感に比べて、マイナス要素がやたら大きいことに気がつきました。

味覚だけが麻薬のように健康を損なう可能性を秘めている!

なぜこのような危険な感覚があるのか不思議に思い、更に考えを進めました。
そうして以前、妹が私に宣言したことを思い出しました。

「生きるために食べるのか?食べるために生きるのか?
考えるまでも無く、食べるために決まっているでしょう。」

彼女の言葉がこんなところで私に啓示を与えるとは。
味覚は、生命の存在意義そのもの、故に他の感覚に無い危険を孕んでいると、私は結論しました。

枕もとのプラムから、このようなことに気づかされるとは、プラムは侮れません。
今まで、桃のダウングレード版と思っていてごめんなさい。

ではまた ごきげんよう。


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